
前回書いたとおり、私は内科系の訪問看護ステーションの立ち上げに関わりました。ゼロから仕組みをつくる仕事はしんどかったけれど、面白かったです。ただ、ひととおり形になった頃、自分の中で何かが一段落してしまった感覚がありました。次はどこへ行こうか。そう考えていたときに縁があったのが、精神科の訪問看護でした。
病院が運営するステーションへ
最初に移ったのは、精神科の病院が運営している訪問看護ステーションでした。正直に言うと、それまで私が積んできたのは急性期の病棟や外来、内科系の在宅で、精神科はほとんど未経験に近い状態でした。血圧を測って、傷の処置をして、点滴を管理して——そういう「手を動かす看護」で自分はやってきたつもりでいました。だから最初は、同じ訪問看護なのだから大きくは変わらないだろうと、どこかで甘く見ていたと思います。
処置ではなく、対話が仕事の中心でした
ところが、通い始めてすぐに戸惑いました。精神科の訪問では、処置らしい処置がない日もめずらしくありません。ではその一時間で何をしているのかというと、ほとんどが対話でした。生活が回っているか、薬をきちんと飲めているか、お金の使い方はどうか、家族との関係、近所や社会からの孤立、そして支援そのものを拒まれることもあります。そういうテーマに、玄関先や台所で向き合います。血圧計よりも先に、まず座って話を聞くところから始まる仕事でした。
ここで私は、それまでの自分のやり方が通用しないことを思い知らされました。医療者としては、正しい説明ができれば人は動くと思い込んでいたのです。薬を飲まないと調子を崩しますよ、この生活を続けると体に悪いですよ——そう正しく伝えれば伝わるはずだ、と。でも、そうはいきません。正しさをぶつけるほど相手は口を閉じ、距離ができます。「正しい説明」だけでは人は動かない。頭では分かっていたつもりのことを、私はこの現場で初めて身体で理解しました。精神科の訪問看護が具体的にどんな仕事なのかは、精神科訪問看護のリアルのほうに詳しく書いたので、興味があれば読んでみてください。
変化はゆっくりやってきます
戸惑いながらも続けるうちに、私はこの仕事の時間軸に慣れていきました。急性期の病棟にいた頃は、良くなるにせよ悪くなるにせよ、変化が数日から数週間で目に見えました。ところが精神科の在宅では、半年、一年という単位でしか動かないことがあります。先週まで玄関も開けてくれなかった人が、あるときふと世間話をしてくれる。その一言に、何ヶ月分もの積み重ねが乗っています。
結果がすぐに出ないこの時間軸を、私はいつからか面白いと感じるようになっていました。急かさず、こちらの正しさを押しつけず、ただ通い続けて待つ。相手の言葉を、判断を挟まずに聞く。そうやって「待つ力」と「聞く力」が、少しずつ自分の中に育っていきました。手を動かす看護だけが看護ではないのだと、この頃ようやく腑に落ちました。
民間の特化型ステーションへ——正直、いい職場でした
その後、私は民間の、精神科に特化した訪問看護ステーションに移りました。結果から言うと、ここが私にとって勤め人としての最後の職場になりました。正直に書いておくと、給料が良かったです。そして仕事の中身も自分に合っていて、気に入っていました。精神科の訪問だけに絞った事業所だったので、まわりのスタッフも同じ土俵で話ができましたし、私が病院運営のステーションで学んだ「待つ」「聞く」というやり方が、そのまま活きる環境でした。
気に入っていた、と過去形で書くのは、いずれそこを離れることになるからです。けれど、離れる直前まで、私はここで働き続けるつもりでいました。それくらい、居心地の悪くない場所だったのです。
気づけば十二年、これが本流になりました
ヘルパーから始まり、急性期の病棟、市民病院の外来、内科系の在宅と、私はずいぶん職場を変えてきました。転職の多い経歴です。それが、精神科の訪問看護に出会ってからは腰が据わりました。病院運営のステーションと民間の特化型を合わせて、この分野に関わった年数は通算で十二年を超えます。あれだけ移り気だった自分が、これだけ長く一つの領域に留まりました。振り返ると、精神科訪問看護は間違いなく、私のキャリアの本流になっていたのだと思います。
次回予告
では、その気に入っていた職場を、私はなぜ離れたのか。給料も良く、仕事も合っていた場所を辞めて、どうして自分でステーションを開くことにしたのか。最終話となる第6話では、勤め人をやめて開業に踏み切った理由を書こうと思います。
